快眠?
それはどの時代の辞書に載ってる言葉だい?
俺の脳内辞書からはその文字は消しゴムでぐりぐり押し付けられて掠れて消えたも同然になっている。
それでもあのトンデモ現象の中どういう神経になったら爆睡できるだろうか。ともあれ目が覚めたっていう事実は俺自身も驚きと賞賛で言葉が出てこない。
つまりだ、一応は眠れたのだ。
しかしもっとビックリしたのは部屋の散らかり具合だ。
本当に本棚の中身が全部落ちている。
アレは夢ではなかったか、信じたくない気持ちとは裏腹に現実は常に厳しいものだ。
電源を切っていた携帯を開く。
起動し、メールを受信してみるととんでもない量のメールがやってきた。
「うぉぉい! マジか!」
全部マキエからだ。どれも「返事しろ、無視するな」といった内容だ。
中には睡眠を邪魔する類いの脅しもあった。
「……かなりご立腹だな」
とりあえず一通送ってみる。
to
件名 Re:
やぁ、爽やかな朝だね。おはよう。
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怒り丸出しのメールが一方的に来た状態でこのさらっとした返事。明らかに喧嘩売ってるよね、俺。
そして返事は数秒でくる。さすが幽霊だ。
なんだろうな……うまく言えないんだけど表情が見えるってのかな。
何となくだけど、マキエがホッとしてるような気がしたんだ。
そして、俺もそんな風に思ってちょっと安心してる節がある。
昨日ちょっとメールしただけなのにな。不思議なもんだ。
to
件名 Re:
今日は大学なんで、メールはあまり返せないぞ
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あらかじめ釘を刺しておく。授業中にメールしまくりだなんて思われたら教授から目を付けられそうで怖い。
もう少ししたらゼミに入る。ここで印象を悪くしたら今後に響く。
まぁ、そうくるだろうと思ったよ。
しかし幽霊とて、ここはわかってもらわねばなるまい。
……と、ふと思う。
マキエからメールが来たのがこの部屋からだ。昨日の今日の出来事だから検証はしてないが、他の場所だったらどうなのだろう?
地縛霊、という言葉もある。文字通り地に縛られた幽霊だ。
つまり、マキエの行動範囲は……この部屋のみだとしたら?
……チクショウ、突然涙が出てきたぜ。どおりで立地にしては家賃安いと思ったんだ。
それが本当なら、外での心霊メールのお悩みは万事解決だ。
さて、準備をして出pp……
携帯に出ている時刻を見て俺の息が止まり、冷や汗が垂れる。
八時四二分……だと?
しまった……いつもは携帯のアラーム機能で起きていた。電源を切っていたんだ。寝過ごしてしまうのも無理はない。
教室まで自転車使っても二十分はかかる。これじゃ完璧遅刻だ!
俺は大慌てで着替え、かばんを取り上げてアパートを抜け出す。飯とかの話はもうどうでもいい。今は遅刻が一番の問題だ。
くそっ、なんて呪いだ……
自転車で疾風のごとく住宅街を抜ける。人の迷惑とか今は考える余裕はない。とにかく少しでも早く到着できるようにただ急ぐだけだ。
運命はそんな俺を許さないかのように、途中何度か人や看板、果ては落下する植木鉢と衝突しそうな危機を与える。いや、「安全運転しなさい」って忠告なのかな?
しかしその運命を振り切るかのようにハンドルを切る俺。ちょっと定本さんに見せてやりたい姿だ。いや、今は俺の嫁の大谷さんにかな。
学校に行くにあたっての巨大関門が先に見える、通称「開かずの信号」。
一度赤になると、次の青まで長く拘束される交差点だ。
次の時間まで、ざっと五分。あまりの長さに、歩行者には歩道橋が用意されてある。
どの頭で考えたか知らないが、そこに自転車用の道はない。チクショウ。
ならば答えは一つ。赤になる前に抜けるのみ!
さっきから携帯のメール着信音がうるさい。恐らくマキエだろうな。部屋に取り憑いてる説は払拭されたんだろうが、今だけはそんなこと考えている暇はない。
あぁ、点滅が始まった……ヤバイ、急がないと!
駆け出そうと立ち漕ぎ姿勢になったとき、変わった着信音が鳴った。
「なっ、なにぃ?」
それは……女性から来る時に設定されたメール着信音。
女友達が極端に少ない俺は、運よくメアドゲット出来たときに、女性だけに特別なメール着信音を設定していた。
さすがにそれに反応してしまい、信号を前に停止してしまった。
「あぁーっ……」
信号が赤になってしまった。
いや、後悔はすまい。稀とも言える女性からのメールなのだ。
携帯を開くと、未開封メールがいくつか。
全部マキエからだった。一番上のも。
「あれ? 女の子からは……」
とりあえず一番上のメールを開いてみる。
とだけあった。
その途端、近くで轟音が鳴り響いた。
驚きで目をやると、トラックが横転してこちらに迫ってきた。
「わっ、うわぁ!!」
突然の出来事で思考が間に合わないが、後ろにだけは慌てて下がる。
ガードレールと歩道橋の柱に守られ、どうにかトラックとの接触だけは避けることができた。
「な、なんだ……事故?」
煙が巻き上がり、無惨にひしゃげたトラックを凝視する。
周りに野次馬がたかりはじめた。俺の手は、今までに無いほど震えている。
もしあのまま信号に突っ込んでいたら、確実に巻き込まれていた。
携帯に表示された文章を確認する。
前のメールも、危険を知らせるものばかりだった。
具体的なタイミングはわからないが、恐らくは……
「まさか、俺を……?」
遅刻はもう確定だが、最悪な事態にはならずに済んだ。
俺は無傷で遅刻。悲惨なのはトラックの運転手だった。
命に別条はないようだが、救急車で運ばれた姿は痛々しかった。とんでもないくらい血だらけだ。
講義を終えて、オカルト研究の部室に上がり込んだ。
今回は俺が一番乗りらしい……大して急ぎもしないときに一番になっても感慨が無い。
携帯を開ける。メールがびっしり来ている。
結局マキエは授業中もうるさかった。マナーモードでカバンの中に入れてたから無視するのは簡単だった。
講義中、多くの生徒がシャープペンを立て続けに落としたが、きっと偶然だろう。
メールの文面を見て、しつこく相手するようねだる姿を思い浮かべる。
多分、マキエは精神的に未発達な子供なんだろう。
無視すれば怒るし、イタズラもする。そして、返事を出せば喜ぶ。
心理学はあまり得意じゃないが、分析するに寂しがり屋なんだろう。
どういう因果か、俺に取り憑いたわけだが。
さて、ここで俺はもう一つ悩みを抱えるわけだ。今ここはオカルト研究サークル。このマキエの事を打ち明けるかどうか。
怪しいこと、と言えば相手のメールアドレスが無いくらいで、その他の現象はマキエの仕業なのかは実は証明できていない。
仮に、昨日今日の出来事が霊的作用によるものなら……なぜ俺を助けた?
色々とハッキリしないからこそ、おおっぴらにするのは止しておこう。
それにこんな美味しいネタ、もっと独占しておきたいしな。
思わず、顔がニヤける。
「……篠本先輩、キモいです」
いつの間にいたのか、大谷さんが真横で呟いてきた。
「うわああぁっ!!」
反射的に携帯を隠してしまう。明らかに怪しい動きだった。
「……メール見てニヤニヤ、メル友?」
「えっ? あぁ、そんなとこだよ」
とびっきり変わった相手からのな。
しかし油断ならんな。うっかりしてたら余計怪しまれる。やはり学校ではマキエとの交信は控えないと。
しかし、相手から催促のメールがやってくる。
「……珍しいです。篠本先輩にメール送る人がいるなんて」
おい、それは言い過ぎだろ。確かに女の子からは全くと言うほど来ないけどさ。
「ま、まぁ俺だってその気になればメル友のひとr」
「きっとサクラ。期待しすぎると泣きますよ」
ぴしゃっと言い切られる。大谷さんみたいな世間知らずっぽい女の子の口から「サクラ」って単語が出てくる方が驚きだった。
なに、幽霊までサクラなんかい……俺どんだけ女運無いんだよ。
マキエって名前だけで勝手に女の子を想像してたけど、そういえば苗字の可能性もあることが頭をよぎった。
気落ちする俺を横に、大谷さんが備品室から道具を取り出し、何かの準備を始める。
「何するの?」
「……久しぶりに黒魔術」
まず雨戸を閉じて外光を遮断する。
次に魔法陣の描かれた黒い布を広げ、四隅に燭台を乗せて火を点ける。
中央に水晶玉を設置し、黒い本を片手に大谷さんが陣地の中に入る。ちゃんと肩から黒いマントを羽織っている。
簡単ではあるが、準備は整ったようだ。
「……電気、消してくれます?」
女の子から言われると妙にドキドキするぜ。しかも俺の嫁からだから尚更。
言われた通りに消すと、蝋燭の光だけがそこにあった。
その中心に俺の嫁がいる。その姿は神秘的であり、幻想的でもあった。
大谷さんは流暢な外国語で呪文を呟く。
彼女いわく、黒魔術のやり方は様々らしい。あの思春期のイタズラ、コックリさんですらその一つだとか。
彼女の場合、中心に円と四角の結界を作っているとか。
原理、理論は俺が聞いてもさっぱりだが、まぁそれらしいので問題ないと俺は思う。
これも趣味の一つだ。本当に何かを喚び寄せるつもりもないだろうし。
今は彼女の楽しむ姿を見てうっとりするだけだ。
あぁ、可愛いなぁ。やっぱ俺の嫁だな。
「……先輩」
「うん?」
「……入ってください」
ぼんやりとした笑顔が俺の心を捉えた。不気味であるはずなのに、何故にこんなに惹かれてしまうのか。それはきっと俺の嫁だからだろう。
俺は携帯を机に置いて、言われたとおり陣の中に足を入れようとする。
「待って」
慌てたような声が俺の動きを止める。入れと言われて、入ろうと思ったら止められるってどういうことだ……
「……蝋燭、消して。そこから入って、また火を点けてください」
なんだか面倒だなぁ。それでも、黒魔術のルールというものがあるんだろう。ここは旦那として素直に彼女の言うとおりにしたほうがいいだろうな。
俺は言われた通りの手順で陣の中に入る。
水晶玉に手をかざして呪文を呟く俺の嫁。
黒魔術、というより占いに近いなぁ。水晶玉が特に。
しばらく彼女に見とれていると、驚いた表情で俺の顔を見た。
「……先輩、もしかして呪われてる?」
「え……?」
俺の心臓が跳びはねた。言い方がストレートすぎるが、しかしその指摘は的確だ。
昨日からだが、マキエという幽霊が俺の携帯を通じて現れた。そして部屋はめちゃくちゃになるし、金縛りも経験した。
さらに言えばさっきの事故だ。全て、偶然とは思えない。
例え趣味だとしても、黒魔術は侮れない……俺は冷や汗をかいた。
「わ、わかるのかい?」
心当たりがあるからこそ、俺は前屈みになって尋ねる。
「……見えます、何かが」
俺は緊張のせいか、喉が渇く。
黒魔術、マジで伊達じゃないな……いや、大谷さんがすごいのか?
「お祓い、してみます」
そう言って彼女はまた呪文を呟き、俺に向かって手を広げる。
何かオーラめいたモノを感じる。遊びであるにしても、その力を信じたくなる。
もし、昨晩の悲劇から解放されるなら、それにこしたことはない。
恐怖体験は一度で十分だ。
水晶玉に指を突いたところで、お祓いが終わったようだ。
「……多分、平気です」
「マジで?」
「た、多分……」
ちょっと照れ臭そうに頬をかく彼女。
心なしか、肩が軽い。
「ありがとう! さすがは俺の嫁だ!」
思わず、彼女の体を抱いて叫んでしまった。
嬉しさでつい舞い上がってしまった……
「よ、嫁……?」
困惑した表示を見せる彼女。つい口が滑ってしまったとはいえ、大声で嫁発言はマズイ。
「あっ、いや、それはその……」
あーっ、やばい。大谷さん、眉を寄せてこっち見てんよ。これはドン引きだぁ!
そして、突然明るくなる部室。
「しの……もと?」
声のする方に首を動かす。定本さんがものすごい目で俺を睨んでくる。
いや、違うんだ。これは誤解なんだ……嫁発言はちょっと本音入っているけどさ。
「春っちに、何してるの? 部屋暗くして……」
「く、くろまじゅ、つ……」
細々とした言い訳だけしか出てこない。言い訳じゃないんだ、本当なんだ。でも……
「へぇ、大人しそうな女の子捕まえて『俺流の黒魔術教えてやんよ』って言ってヤラシイ事でもしてたのかなぁ?」
違ぁーう! っつうかなんでそうなるの!?
しかも妙にヤラシイ解釈しおって!
「……あ、あの定本先輩。黒魔術は私が……」
先日と同じように、大谷さんがフォローしてくれる。
これで誤解が解けると思ったら……
「春っち、いいのよ。前もそうだったけど、弱み握られて逆らえないようならあたしが成敗するから。部屋を暗くして女の子の身体触るなんて最低よ?」
だからなんでぇ? 俺もう泣くことしかできない。
今度は定本さんからの直接攻撃が飛んできた。
その後やってきた江城は、先日の件もあってか冷静に状況を確認した。
さらなる最悪な事態に陥らずには済んだ。
いや、大谷さんに余計な誤解を与えてしまったのは大きいなぁ。
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早めに帰宅して、散らかった部屋に寝転がる。
メールがやってきた。
おい、祓えてねーじゃねぇか。
……いや、祓えてないというより、取り憑いている相手が違うんじゃないか?
今まで俺自身に憑いているんじゃないかと思っていたけど、これは大きな間違いだった。つまり、マキエは俺の携帯に取り憑いている……ということなるんじゃないかと。
だとしたら、大谷さんのお祓いは見当違いってことになる。
まぁ、いっか。このトンデモ体験が終わってしまうのも惜しい話だし。
しかしまぁ、マキエは俺のこと見えているのかね。状態を把握してるし。
to
件名 Re:
まぁ、色々とあってさ。今日はくたくただよ。
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呪われた一日、とはこのことか。
授業に遅刻するわ、道中では事故に遭いかけるわ、定本さんからまたいらん誤解を受けるわ……
あの後大谷さんもちょっと距離開き気味だったなぁ。
不意でも俺の嫁発言はまずかったかな。あぁ、ちょっと憂鬱だ。
そんな俺の気分などつゆ知らず、幽霊は一方的に話かけてくる。
ん? 何がだ?
その一文を見たとき、俺の背筋が震えた。
あまりにも展開が速いが、幽霊の目的が見えたのだ。
相手によっては慎重に動かなければならない。
踏み込むのは怖かったが、目を背けちゃだめだ。
俺は覚悟を決めてメールを打った。
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