七、牧江の隣人

【☆】
 おねーちゃん! 大好き!

 無邪気さと幼さを残したその笑顔が私たちの前から消えてから早くも四年。以来、私たち一家に笑顔が戻ることはなかった。

 両親は当然牧江の行方に敏感になり、警察への定期連絡や目撃情報を求めるビラ配りも数えきれないほどした。

 結果はご想像の通り、未だ有効な情報は掴めていない。

 時折イタズラで話が舞い込んできたりするけど、もうそんな情報に踊らされるのも疲れてきた。

 きっともう牧江は……



 バイト帰りに行きつけの喫茶店に入る。

 私が小学六年生からお世話になっている老舗の喫茶店だ。

 まだ恋を知らない女の子二人が、背伸びして大人のフリをしたくて通い始めた喫茶店だ。

 お小遣いはたかがしれてるから月に一度くらいが限界だったけど、店主さんは気を利かせてくれて私たち二人には安く紅茶を提供してくれた。

 牧江と一緒に食べたあのケーキの味は、今も変わらないままだ。

 その味が、あの娘との繋がりを忘れさせないでくれる。

 様々なアンティークに彩られた古風な造りに似合わず、私は「館の住人達」のページをめくる。

 牧江の愛した世界を、今も浸る。

 今もどこかで、読んでいることを期待して……

「里美ちゃん」

 店主さんが紅茶のポットを手にそばに来た。

 何も言わずに、少なくなったティーカップに注ぎ入れる。

「すいません、ありがとうございます」

「良いんだよ。今はもう他にお客さんいないし」

 見渡すと、確かに腰を掛けている客は私だけだった。

 時計を見ればもう九時半を過ぎていた。閉店時間もとっくだ。

「ごっ、ごめんなさい! こんな遅くまで!」

 慌てて本をバッグにしまう。

「気にしなくていいよ。里美ちゃんは昔からの常連さんだから、もう少しゆっくりしていきなさい」

「いえ、でも……」

 店主さんは小さく笑い、隣の椅子に腰をかける。

 その表情は、少し物寂しげで……

「……里美ちゃんと牧江ちゃんにはお世話になったね」

「え……?」

 一体何の話が始まるのか、分からなかった。そして、突然牧江の名前が出て来て、心臓が飛び跳ねた。

「十年くらいになるのかな。君たち姉妹がうちに来たのは」

 思えば、私たちとこのお店の付き合いは長い。今ここに牧江が居てくれたら、言うことは何もない。

「小さくて可愛いらしいお客さんが今やこんな美人になって。親心っていうのがよくわかるよ」

 店主さんは結婚したけどもまだ子供が居ない。私たちに子供の影を当てはめる気持ちも何となくわかる。

 出会った時から大人の人だった店主さんは、私たちからしたら叔父さんみたいな感じだった。

「君にはいち早く知らせたいと思ってね。良い報告じゃないのが残念だけど」

「え……どうしたんですか?」

 不安が私の心臓を鷲掴みにし、チクリと痛みを与える。

「店を畳む事になったんだ……長い間ありがとう」

 牧江との繋がりが、一つ消える音が聞こえた。
【△】
 おぼつかない足取りで、危うい記憶を抱えて俺は自宅の玄関をくぐった。

「ただいあぁー……」

 だらしなく言葉になってない声で家族に帰還を報せる。

 靴を脱がずに上がり框に寝転がる。まどろむ意識の中で階段を下りてくる足音が耳に入った。

「兄貴、おかえり。今日は遅かったね」

 寝巻き姿の妹が珍しそうな目で話しかけてきた。

 俺が酒を飲むだなんてそうそうない。あってお呼ばれする合コンくらいだ。

 察しのいい妹は口元を釣り上げる。

「合コン行ってきたの?」

「ご名答……おかげでまともに歩けん」

 寝そべったまま動かない俺に妹は軽いステップで寄ってきた。

「彼女になれそうな人、みつけた?」

 酔った勢いとは言え、口走った事を後悔した。マズった……コイツに今のは禁句だった。

「興味ねぇな……」

 面倒事が起きると予想し、俺は重い身体を起こす。さっさと部屋に戻らないと。

「兄貴、まだ楠原先輩の事待ってるの? もう四年だよ。兄貴だって新しい恋を見つけても良い頃だよ」

 毎回耳にする。俺にとってはその言葉は苦痛でしかない。

「……そんな事をして牧江が戻ってきたら、俺はあいつに向ける顔が無い」

 妹の声を振り払うように、俺はふらつきながらも手すりを掴んで階段を上がる。

「兄貴!」

 不満一色の声で妹が叫ぶ。

 自室のドアを閉じてベッドに倒れこむ。風呂に入ってないだとか細かい事に気が回らない。

 妹の言葉に触発されたか、俺の頭の中に「初恋の少女」の思い出が通り過ぎていく。



 思い出すのはいつも牧江の笑顔だった。

 お互い大人になりきれてない所もあったからか、小さなことで笑い、何でもない事で盛り上がっていた。

 交際していた時間は一年もなかった。せいぜい半年ちょっとだ。

 別れたからではない。牧江が俺の前からいなくなってしまったのだ。

 虫垂炎で手術をする、と言って数日入院。

 その退院から一ヶ月もしないで突然消えてしまった。

 牧江の家族と一緒に何度も探し回ったが、結局今も見つからず仕舞い。

 捜索に疲れ果てた俺たちは警察の報告を待つのみとなってしまった。

 四年前の話だ。

 俺は今でも牧江の笑顔と思い出が忘れられず、ずっとアイツの帰りを待ち続けている。

 いつでも帰ってきてもいいぞ……そういう意味を込めて俺の部屋には当時愛着していたデート服をクリーニングから戻ってきた状態でそっとしまってある。

 報告は、未だ無い。

 家族の人はもう諦めたか、妹を溺愛していたお姉さんは今も元気でやっているだろうか。

 牧江の家族が諦めの気持ちを持っていたとしても、俺はずっと待ち続ける。

 俺だけは、牧江の帰りを諦めない。諦めたくない。

 冷めた世界に大きな温もりをくれたのは、他の誰でもない……牧江だったから。
【☆】
 店主さんからの報告はショックだった。

 牧江との思い出が消えてしまう気がして、とてつもなく寂しかった。

 呆けた私は、自宅を通り過ぎて自然と赴くままに坂道を歩いていく。

 家から少し離れた公園の端。高い山になっているので町を一望できる場所。

 一番高い場所だねって笑って、夜には星をちりばめたみたいに輝く町の光にため息をついた。

 お父さんやお母さんに話せない悩みは、ずっとここに来て聞いて……ささやかだけど、牧江との思い出の場所だ。

 あの娘はこの場所が大好きだった。テストで点が悪くて帰りづらい時も、ここで落ち込んでいた。

 恋の相談も聞いたりした。学校で人気だった先輩の男子と付き合う事になったという話を聞いたときは私も一緒になって喜んだ。

 最後にここに来たのはその話だったかな。

『そんでね、その先輩が言ってくれたんだ! 楠原は紅茶の飲み方が綺麗だって!』

 牧江が彼氏ができたときに聞いた言葉。無茶して大人のフリをして、甘くもない紅茶を渋い顔して飲んでいたのが、そんな形で役に立つとは思わなかった。

 品の良い女性という認識を持ってくれたのだろうか、その特訓じみた喫茶店通いは良い恋愛のキューピッドの役割を果たしてくれたようだ。

 結果論だけど、牧江が居なくなってしまうまでの半年ちょっとの幸せの時間を作り上げることができたのが、唯一の救いだと思った。

 そして、そのきっかけをくれた喫茶店が近々消えてしまう。

 加えて、ここから見える景色も、あの頃から比べると随分変わってしまった気がする。

 町が牧江の事を忘れていくようで、突然悲しみがこみ上げてきた。
【○】
 躊躇う気持ちは強かったが、ついに俺は江城の写真をマキエに送信してしまった。

 この幽霊が探し求めていた相手は、他でもない江城だ。

 写メを撮っただけでは何の反応も無かったって事は、画像を直接マキエに送信する必要があるわけだ。

 撮ったものを勝手に見られるより、こういう形で任意に見せられる方が安心できる。ちゃんと電話として機能できるしな。

 さて、どんな反応がやってくるのかね。

 反応が全くない。

 失敗したんじゃないかと思ったが、発信履歴はちゃんと残っている。

 十分ほどしてやっと返事がきた。


from
件名
  エし ろ

   セ ンぱ

    イやッ  ト

   み  つ  ケた


 俺には打ち震えているように見えた。

 先輩ってことは昔の知り合いとかか。

 幽霊として携帯電話に取り憑いてまで探し求めた相手だ。相当思い入れのある関係なんだろうな。

 良いなぁ、江城……随分前から慕われてたって事だよな。

 しかし同時にこうも思う。若い内から、そんな女性を失ってたって事だ。

 いや、江城のやつがマキエの事をどう思っているかはわからんけど。

 さて、これから俺はどうするべきなんだろうな。

 江城にこの事を知らせるべきなのか、それとも隠したままにしておくべきなのか。

 この幽霊が江城に悪影響を及ぼす可能性だってある。

 ここからの行動や態度は、より慎重にならねばならない。

 とりあえずは様子見だ。気配だけは感じられるらしいから、江城の前では気をつけなければ。
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