十六、楠原マキエ・前 |
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【☆】 |
牧江は二歳下の妹。 小さな頃から私の後ろを追いかけている可愛い女の子。 小学六年に入って大人みたく振る舞いたくて砂糖無しで紅茶を飲み始めた。 牧江と遊びに歩いている途中で素敵な喫茶店を発見し、小さな手を震わせてノックした。 気品のあるアンティークが並ぶ喫茶店。幼いながらもその美しさは私たちの心を掴んだ。 小学生には高いと感じる紅茶も、口に入れた途端惹き込まれた。 大人の練習は、この喫茶店にしよう。 私と牧江はこの苦い紅茶を優雅に飲める事を目標に、早くて二週に一度のペースで通った。 牧江は喫茶店の飼い犬の散歩を買って出て、頻繁に通ってたようだ。 高校入学を境に、妹との進路が別れる事になった。 私はお嬢様の通う女子大の附属女子高校。 牧江は憧れた先輩を追いかけて共学の難関進学高校。 二つの歳の差はあっても、一緒に通えなくなるのは寂しいと思った。 今思えば、その選択が正しかったのかはわからない。 |
【△】 |
俺は常に厳しさを強いられる環境で育った。 特に親父の教育は他所と比べると相当だったと言える。 勉学では常に一位を保て、上位は甘えだ……口にするのはそればかりだ。 友達が持っているようなオモチャやゲームは一切与えられず、求めよう物なら平手打ちが生ぬるい回答だった。 部活も学校の義務で入れさせて貰っているだけで用が無ければ勉強させられていた。 だからこそ、部活での時間はすごく楽しかった。携帯ゲーム機様さまだ。 そんな俺、口にするのは気が引けるが、相当モテていた。 女子から話しかけられる事はしょっちゅうだし、デートのお誘いも何度か受けた。 「カッコ良くて勉強できる」がキャッチフレーズなのか、とにかくその上辺ばかり付いてくる女ばかりだった。 顔はわからないが、勉強だけは強いられて手にした力だから、喜びも何も無かった。 満点を取ったとしても、「そうか、当然の結果だ」と新聞片手に吐かれるだけで達成感ですらなかった。 褒められる喜びもなく、常に苦しい環境下で暮らし、公園でよく遭遇する犬達を撫でる事が一番の癒しだった。 そんなとある日の事、犬を連れたあいつと出会ったんだ。 「江城先輩!」 女子は俺の事をよく知っているらしい。 「えっと、すまない、君は……」 「楠原です! 楠原牧江です!」 俺は女子に興味が無かった。 親父がガキの恋愛を許すはずもないし、勉強だけに集中させたかった意向に沿って、俺も意識は向けなかった。 だけどその時だけは違った。 理由は至極単純だ。その娘が連れていた犬がコリーだったのだ。 犬に癒しを求めていた当時、コリーは強く俺の心を掴んだ。 日本じゃ滅多に見ない。似ているシェットランドくらいだ。 「それ、君の犬?」 「あ、いいえ。この子は喫茶店で飼っている犬で、代わりに散歩してるんです」 わざわざ喫茶店の犬の散歩とは酔狂なものだ、とガキながらに思ったものだ。 それからの話、俺は牧江と公園で会うようになった。厳密にはコリーに会うのが俺の目的だったのだが。 会うと犬と社交ダンスやフリスビーで遊んだりした。 とある日、牧江が水筒に入れて紅茶を持って来た。 ロッキー(コリーの名前)のいる喫茶店の商品らしく、そこで貰ったのだとか。 「紅茶なんて飲むんだ……」 「すごく美味しいですよ。先輩、飲んでみます?」 紅茶なんて飲んだ事無かった。かなりの高級品という事も聞き、どんなものかと期待して口に入れた。 咳き込みたくなるくらい苦かった。 「うへぇ、楠原、こんな苦いの飲んでるの?」 「はい、大好物です。ロッキーも好きだよねー」 苦い紅茶をガブガブ飲む犬。本当大丈夫なのかよ……と唖然した。 そんな紅茶を、香りを楽しみそっと口に流し入れる牧江の姿に見惚れてしまった。 夕焼けの情景と重なった為か、どんな絵画よりも美しいと息を呑んだ。その吐息ですら完璧なパーツだった。 俺の中で、牧江という少女の存在が変わり始めた瞬間だった。 それからというものの、意識的に公園で会うようになっても、それ以上の関係にはならなかった。 間に犬が挟まっていたから? その時には犬はただの口実になってた。 親父はその習慣を酷く嫌った。 だからこそ、文句言われないように勉学に励んだ。点数さえ取れば良いのだ。その為の迷いは無かった。 点数をクリアした次、牧江の事について突っかかってきた。 「その娘は、どんな家庭なんだ?」 「親父には関係ねえだろ! 点数はしっかり取ってる! 何がいけねえんだ!」 相手が自分の家柄に合うか、という事なのかと思っていた。 今なら真意がわかる。逆玉を狙っていたんだ。 最難関の進学校に主席で入学した。 そして俺を追いかけて牧江が滑り込みで合格した。 ただのミーハーではない、ここまで懸命な意志に、俺はついに牧江の気持ちと向き合う事にした。 高校生活一年の間に幾度となく告白を受けたが、全て断ってきた。 自惚れているわけではないが、牧江からの告白を待っていたんだろうな…… それからの日々はすごく充実した。 下校デートを毎日のように繰り返し、土日もお互いの都合を空けては頻繁に会った。 しかし当然良い事ばかりではなかった。 親父からの目は厳しくなり、さらには俺と交際したことで嫉妬した女子から牧江がイジメに遭う事態になった。 俺はその現状を変えるべく、武道を学ぶようになった。俺が強くなれば牧江を被害から守れる。そう信じて…… 理論から攻めた為か、それとも牧江の為を思ってか、俺の強さは劇的に伸びた。 わずか一ヶ月半で試合で準優勝できる程にまで成長し、牧江をイジメている女子達に啖呵を切ったらスッパリと無くなった。 『顔が良くて、勉強も出来て、さらにものすごく強い』という理想的な三拍子を揃えた俺は、誰からも注目を浴びる存在となった。 生徒会からの呼び声もある等、学校を代表する程の人気者となった。 牧江と一緒に生徒会役員として活動をする事になり、忙しくさらに充実した高校生活となった。 その頃になると、親父は何も言わなくなった。 当時の俺の活躍に、満足してくれてたんだろう……そう思っていた。 |
【☆】 |
牧江が彼氏を連れてくるというのは、一つの事件だった。 お父さんは慌てふためき、お母さんは楽しみで仕方ない様子。 私はその彼の事をよく知っていたので素直にお迎えしようと思っていた。 江城優悟君、中学でも名高かったイケメン優等生だ。 牧江にはちょっぴり不釣り合いかなって言えちゃうくらいの完璧な男の子。 どういう経緯でゲットできたのかわからないけど、当の牧江は「紅茶の飲み方が綺麗だ」って言われたみたい。 彼を紹介された時、お父さんの印象はすごく良かったみたい。 真面目で誠実そうな彼の姿に「婿の逸材だな」ってコメントしてた。 生徒会役員だもの、根はすごく真面目よね。 和気藹々と初対面の緊張も解れ、江城君は帰る頃にはもう馴染んでいた。 良い事ばかりは続くもんじゃないって思っていたけど、その直後にあんな事が起こるとは思ってもいなかった。 |
【☆】 |
高校生活が始まって幸せ絶頂期が終わらない妹の姿を見て私も両親も嬉しく思った。 相手が将来像の見えない遊び人ではなく、勉学に励む真面目な好青年であることが大きな要因だ。 お父さんの死で一時無気力状態にはなったけどすぐに立ち直って、今では生徒会の会長候補にまで上がっているほど。 亡くなった彼のお父さんも、今の姿を見てきっと誇りに思ってくれるに違いない。 うちの両親も、彼になら牧江を任せて良いと早くも意気込んでいる。 私は、牧江が幸せになるならそれで十分だ。 肝試しイベントから帰ってきて数日後、牧江が激しい腹痛を訴えた。 最初は女の子の日かと思ったけどそれとはまた別ものみたい。ちなみにもうそろそろだって言ってた。 私は慌てて救急車を呼んで、病院へと同伴した。 そこで検査を受けた結果…… 「お姉ちゃん、高い確率で盲腸だって……」 虫垂炎の通称。数日の入院で治るという話もあり、従う事にした。 牧江が私たちの前からいなくなる、一ヶ月前の話だ。 |
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何度やってもうまく行かず、ストレスで苛立ちが爆発しそうだった。 この「実験」は表立ってやるべきではないし、動きには慎重さを要される。 期間を開けて行うからこそ、怪しまれようとも疑惑からギリギリで回避できるのだ。 これから虫垂炎のオペが始まる。研修医の監督として立ち合う事になっている。 まだ準備中で、血液検査もやってないとか。 今その患者から採血する為に私自ら出向いているのだ。 「楠原牧江」と書かれた札のある病室、ここか。 「失礼します……」 カーテンを開くと、患者の少女とその家族が入院準備を整えていた。 ふむ……可愛らしいお嬢さんだ。 自己紹介と簡単な流れを説明し、採血をさせてもらった。 血液検査を済ませ、手術室に戻り看護師たちに指示を仰ぐ。 残った血液のサンプルを、誰も見てない事を確認し、懐に仕舞った。 業務を全て終え、小太原の研究室に入る。 盗ったサンプルを調べたくてウズウズしていた。 あの若く可愛らしいお嬢さんで実験ができたらどうだろう……そんなことばかりが頭の中を駆け巡っていた。 サンプルから一部を取り出し試薬を混ぜる。 反応によっては実験対象から外す事もあり得る。 闇雲に行える実験ではないからだ。 「な、なんだこの反応は……」 予想を遥かに上回る結果だった。 これはまさしく逸材だ。逃す手はあり得ない。 保険証から得た個人情報を確認する。 「楠原、牧江……」 彼女をここまで誘導する算段を組み立てる。 まずは行動パターンの把握からだ。 遊びを兼ねた、実験の始まりだ。 前の実験から期間が開いてないが、こればかりは話が別だ。 |
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