十七、楠原マキエ・中

【☆】
 誰かに尾けられてるかもしれない。牧江がそう言い始めたのは退院してから一週間くらいの事だった。

 年頃の女の子が抱える問題とあって、両親も警戒して真剣に向き合った。

 牧江には江城君っていう心強い騎士がいる。牧江の方から彼にも呼びかけてより安心感を強固にした。

 そんな状況のさなか、牧江は江城君と二人きりでデートに行くと言い出した。

「牧江、今はちょっと危ないんじゃないかな?」

「大丈夫だよ、そんな遠くには行かないし、江城先輩だって一緒だもん」

 尾けられている、というのはあくまで牧江が感じている事であって実際何かを見かけたという話ではない。

 牧江の杞憂という可能性もある。

 でも、大切な妹だからこそ、そういう不安を蔑ろにしたくはない。

 江城君を信用しないわけじゃないけど、万が一という事もある。

 牧江の笑顔を信じるだけで精一杯だった。

 信じたくないことばかりが実現する。

 私たち家族が見た、牧江の最後の笑顔だった。
【△】
 デートには、俺も正直反対だった。

 牧江の妄想とも言える尾行疑惑だが、彼女の家族は気が気でないかのように敏感になっている。

 何よりも大切な娘なんだ、気にしない方が無理がある。

 牧江の家族から連絡を貰い、よろしく頼むと言われた。

 俺にとっても牧江は大切な存在だ……当然守り抜くつもりだ。

 いつも通り縦浜で待ち合わせをして遊びに出かけた。

 六景島シーヘブン(遊園地)に行こう、と誘われた。その日は少しだけ特別だったんだ。

 俺と牧江が公園で出会って、丁度二年だって言われた。

 付き合い始めは高校に入ってからだけど、思えば知り合ってからは長い年月があったんだな、と感慨深かった。

 そんな記念日の事に鈍感だった俺は牧江の誘いに素直に従った。

 人混みの中離れないように手を固く握る。

 日常のようで非日常の楽園は、記念日の思い出として最高だった。

 俺も我を忘れて楽しんでしまっていた。



 楽しいひと時でも、否応なしに邪魔する感覚がやってくる。

「少しトイレ行ってくる。ここで待ってて」

 仕方ない話とはいえ、尿意とは情けない。

 牧江は笑顔で手を振り、ベンチに腰掛けた。

 俺はそこまでは確認した。遊園地という非日常の世界に浸り、警戒心を緩めてしまったのかもしれない。

 もしくは、牧江の尾行疑惑を話半分に受け止めていた節もあったのだろう。

 トイレから出た先に、牧江の姿が無かった。

「……あれ?」

 ベンチに座ったところまでは確認した。

 しかしそのベンチには、既に他人が座っていた。

「牧江ー?」

 呼んでみるが返事はない。周囲を探しても見当たらない。

 携帯電話を取り出し、電話をかけてみる。

 留守番電話サービスに繋がるだけで出る様子はない。

 何か食べ物でも買いに行ったのかな……最初はそんな軽い気持ちで牧江の戻りを待った。



 それは少しずつ焦りに変わっていった。

 胸を締め付ける嫌な感覚を覚え始め、何度も同じ場所をぐるぐると回った。

 牧江の写メを出して通行人に聞いたが「見かけてない」「知らない」の一点張りだった。

 息が詰まる程の苦しさが込み上げ、迷子センターに駆け込んだ。

 そこでまだ一時間も経ってない事に驚いた。

 焦りは時間感覚を奪う事を実感したが、逆に僥倖ともいえた。

 早い決断と行動は事態の悪化を防ぐ。

 焦りに救われた……そう思っていた。

 牧江の名前をアナウンスしても現れない。連絡すらなかった。

 当然、その間に幾度となく牧江の携帯にコールを投げた。

 留守番電話サービスに苛立ちを覚えた。

「チクショウ! なんで出ないんだ!」

 思い切って電話を投げてしまった。

 トイレに行ってるあの一瞬で何が起きたのか、監視カメラの再生を依頼した。

 役員は半分怯えていた。筋肉質の苛立った男が不機嫌のまま掴みかかっているのだ。

 妙な刺激は避けるべきだと言わんばかりに大人しく従ってくれた。

 結果、牧江のいたはずの部分だけが撮影されておらず、結局は何もわからなかった。

「なん……で、だよ……なんで何も映ってないんだ……」

 もう打つ手は無かった。

 いや、自分の足で捜す……それしか残されていなかった。

「牧江! どこにいるんだ、返事してくれー!」

 写真データをコピーして、一部のスタッフも一緒になって捜してくれた。

 何時間捜しただろうか、日も落ち始めて遊園地の明かりも付き始めた。

 焦りもピークに達し、息が上がってさすがに限界に近づいてきた。

 どうして突然居なくなったのか……そこでふと牧江の言っていた尾行疑惑が頭をかすめた。

 今まで捜すことに精一杯で、そのことがすっぽりと頭から抜けていたのだ。

 まさか、このタイミングを狙って牧江を誘拐したのか?

 だとしてもピンポイント過ぎる。

 今日の予定はどちらかと言えば予想外の範囲だし、たまたまと言うには出来すぎている。

 イタズラであってほしい、ドッキリだったら盛大に笑ってやる。

 だから……戻ってきてくれ……

 足を止めずに探し続けていると、男性スタッフが俺に向かって声を上げてきた。

「江城様! こちらです!」

 俺はすかさず彼の方へ走る。

 なんだ、やっぱいるんじゃないか。心配させやがって。

 二周年だからってサプライズさせすぎだぞ。

 牧江を見かけた時に、なんて声をかけてやるか考えた。

「いたんですか!?」

「楠原様かどうかはわからないですが……女の子がこちらに居たので、もしやと思い……」

 ともかく良かった。俺は礼を言って指された方へ駆ける。

 ……そこには誰も居なかった。人気のないただの道だ。

 一体何が起きているのかわからない……ただ、唖然としていた。

「ぶぉおおおおお!」

 後ろから突然男の大声が上がった。

 驚いて振り向くと、二メートルはあるかと思われる大男が俺の後ろに迫っていた。

「なっ、なんだ!?」

 大男は大きな拳を俺に勢いよく向ける。

 あまりにも大振りなそのモーションは避けるには難しくなかった。

 焦点の合ってない突出した目、三角形の頭と脂肪だらけの肢体。

 明らかに脳障害を抱えているだろうと予想が立つが、その行動は暴力に対して躊躇いがないことが伺える。

 ……コイツ、危険だ。

 情動のみで動き、理性を欠いた人間が暴力に特化する……簡単な話、小さなテロリストだ。

 話し合いは一切通じない。切り抜けるにはただ、倒すのみ!

 牧江を捜す為にはここで時間を無駄にしていられない。

 格闘に関しては明らかに俺に分があった。

 敵の攻撃を避け、その隙を突いて蹴りを入れる。

 その繰り返しでなんとかなるはずだった……

 誤算はそこから先だった。

 まず相手が脂肪だらけの為かこちらの攻撃をほとんど通してないこと、そして俺の体力が最初から尽きかけていたこと。

 最悪だったのは敵の一撃が想像を遥かに超えるほど重かったこと。

 一度頭を平手打ちされただけだった。

 脳震盪が起きるんじゃないかと言うほどの衝撃がやってきて、俺は膝を付いた。

 さらに膝蹴りで俺を仰向けに倒し、何を思ったか大きな石を掴み上げ、俺の左腕を潰す勢いで振り下ろした。

「ぎゃぁああああ!」

 血が止めどなく流れる。運良く折れてはいなかった。

 追撃は続いた。俺の後頭部を掴み、そのまま顔面を松の木に叩きつけた。

 そこから、記憶が曖昧になってきた。ただ、執拗とも言える容赦なき攻撃が俺に襲いかかった。

 反撃はしたと思う、しかし届かずにさらに痛い思いをしたという記憶しかない。

 俺の目の前が暗くなる。一体何が起きているのか、さっぱりわからなかった。



 次に目が覚めたのは、病室だった。

 俺の家族と、牧江の家族が一緒だった。

「こ、ここは……アツッ!」

「兄貴、起きちゃダメ!」

 妹に制され、俺はベッドに身を委ねる。

「……牧江は?」

「それはこっちが聞きたい!」

 俺の問いに激昂したのは牧江の親父さんだった。

「お前という男がいながら、何があったんだ!」

 院内着の襟を掴み、俺の首を揺さぶる。すごく痛かったが、我慢した。

「やめて下さい! 怪我人なんですよ!」

「うるさい! コイツといたばかりに、娘がどこかへ消えてしまった! どこへやった! 答えろ!」

 答えられる訳がなかった。俺だって知りたいんだ。

「お前に頼んだのが間違いだった! なんでデートを止めなかった!」

 怒りが頂点を超えたのか、怪我人であるにもかかわらず、俺を殴りつける。

 抵抗したかった……でもこの怪我じゃ十分にできない。

 途中から介入した医者から「傷害罪になる」と止められるまで、暴行は止まらなかった。

 俺はただ、殴らせた。格闘技で慣れたせいか、親父さんの拳はそこまで強くなかった、というのもある。

 牧江失踪が誘拐なのだろう……という予想はできた。

 しかし、誘拐と裏付ける証言が無かった。

 遊園地スタッフが集めてくれた話だと、どうやら自分からふらついてどこかへ行ってしまった、とのことだ。

 何者かが誘拐したという姿を見かけてはおらず、夢遊病みたく一人でどこかへ向かっていった……という話だった。

 誰に聞いてもそうだったという。

 誘拐された、と言われた方が自然な気もしたが、証言の数と話の一致性で突然どこかへと去っていったという結論になってしまった。他に確かめようがないからだ。

 その不可思議な現象について一つ、実は心当たりがあった。

 肝試しによる霊的な現象が起きたのではないか……という非科学的な見解だ。

 でも、俺が思う中ではそれしか考えられなかった。

 それでも不可解だったのはあの大男の存在だ。

 なんで、俺に向かって殴りかかってきたんだろう……その理由だけが俺には理解できなかった。

 牧江がどこへ行ってしまったのか、もうそのことだけしか頭になかった。
『では、向かっておりますので、あともう少しでお連れできるかと思われます……』

「あぁ、とても助かった。感謝するよ」

 全ては順調に行ったようだ。

「楽屋」からの報告を受け、満足に浸る。

 一ヶ月弱かかったが、楠原牧江の身柄を確保する為には資金を惜しまなかった。

 さすがに雇った数は多かったが、逸材を手に入れる為には致し方ない。

 いつもは「楽屋」から四、五人程雇うのだが、今回は三十人程だ。

 それくらい周到に動いた。

 楠原牧江の行動を調査し、把握した。

 遊園地に行ったという、不測の事態だったらしいが、仕事をこなしてくれた事に拍手を送りたい。

「楽屋」の者はどこまでやってくれたかわからないが、その仕事ぶりには関心する。

 彼らが言うには予想外の行動ほど確実性が増すとのことだ。

 理屈はわからない、成功さえしてくれれば良いのだ。

 誘拐の為だけに存在するグループとは思えんくらいだ。

 アフターケアもしっかりしていると聞く、関係者にはどういう話で通るのだろうか。興味ある話だ。

『ところで、楠原牧江を捜していた少年がいました』

「剛介に当たらせたのだろう? どうだった?」

 剛介は狂者の眼の持ち主だ。本能のままに戦うが、そう簡単に負けることはないだろう。

『完膚なきまでに……今気絶してますが、どういたしますか?』

 そういう人材は後の「楽しみ」に繋がる。

 今は無理でも「眼」が覚醒すれば楽しめる。

「放っておけ。後は頼んだ」

 電話を切り、笑いが漏れる。止まらなかった。

 しばらくし、気を失った楠原牧江が研究室に運びこまれた。

 可愛らしい顔立ちのお嬢さんだ。これから実験に協力してもらえると思うとゾクゾクする。
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