二十、彼の償い

【○】
――しのもと  どうしてないてるの

 俺は弱かった。

 助けを求める彼女に、何一つ手が出せなかった。

――おちこまないで しのもとほんとは つよい

 あのDQN達に何もできなかった。

 そんな俺が強いわけがない。

――つよいよ だって しのもとは……



 深い眠りから覚めた。天井と周囲のカーテンを見て、病院だと咄嗟にわかった。

 起き上がろうとして、激しい頭痛に妨害される。

「篠本、大丈夫……?」

 今岡先輩が覗き込むように顔を近づけてくる。

「俺は、どれくらい?」

 先輩は安心したのか、ため息をつく。

「まだ日付は変わってないよ。夜遅めだけど」

 時計を確認すると、夜九時を越えていた。

 面会時間とか大丈夫なのか?

 いや、そんな事より気にすべきことはある。

「……大谷さんは?」

 聞くのが怖かったが、無視してはならない。

 今岡先輩は唸り声を上げて困っている。きっと何て言おうか言葉を選んでいるのだろう。

「命は、問題ない」

「助かったんですか?」

 俺は彼女に掴みかかる、頭痛がやってくるが今はそんなのお構いなしだ。

「江城君がね。彼も怪我したみたいだけど、どうにか救出できたみたい」

 そうか、江城が助けてくれたのか。どうにか最悪な事態だけは免れたか……よかった。

 力が抜けてベッドに倒れる。

「でも……」

 俺の安堵のため息を吹き飛ばす、暗い声。

「心の方はどうか……」

「えっ……?」

 心臓に痛みを感じる。そして妙な鼓動を刻み、俺の心を揺さぶる。

「産婦人科で処置はしてもらったけど、どこまで有効かはわからない。それに、今とても錯乱してる」

 さ、産婦人科……?

 今の俺には嫌なキーワードだ。

 彼女があいつらの良いようにされた……そう言ってるも同然だからだ。

 あのDQNたちに……くそっ!

 命あるだけマシ、としか言えないのか……俺は自分の無力さに涙が出る。

「……彼女に、会いたい」

こんな事態になった今、彼女を支えられるのはきっと俺だけだ。

「……今日は休みなよ。今は春香ちゃんも落ち着く為に時間が必要なんだし。あんたは頭怪我してるんだからジッとしてなくちゃ」

 俺じゃ力不足ってことなのか?

 今彼女に必要なのは、この俺の支えじゃないのか?

「落ち着くって……俺が側にいてあげないと……」

「時間を考えなよ、篠本は起きたばかりだけど、もう九時を過ぎてるんだよ」

「でも、俺は嫁を……大谷さんを……」

「落ち着きなって。気持ちは分かるけど、今はダメ」

「どうしてですか!」

 カーテンで間仕切りされた、多人数部屋であるにも関わらず、つい大声を上げてしまった。

「……じゃぁ落ち着かせる為に言ってあげるよ。春香ちゃんね、篠本を恨んでるんだよ」

  ……えっ?

 俺の熱が一気に冷めた。

 どう、して……?

「でもね、あたしは篠本は良くやった思う。できる限りの事を果たしたと思うし、恨まれる謂れはないよ。その頭の怪我が証拠」

 今岡先輩のフォローは耳に届いても心には響かない。

 嫁に恨まれた……これだけで精神的ショックは果てしないのだ。

「今は春香ちゃんの中でも整理ができてないんだ。だから今会っても火に油だよ」

 俺の無力さが彼女を恐怖から救えなかった。

 江城の強さはわからないが、救えた救えなかったの差は雲泥だ。

 俺が弱かったばかりに、彼女の身体と心に大きな傷跡が刻まれてしまったのだ……俺が、弱かったから……

「くっ……くぅぅ〜……」

 悔しくて、涙が溢れ出てきた。

 上体を丸めて嗚咽を上げる俺を、今岡先輩は柔らかく大きな双丘を当て俺を包む。

「ごめん、篠本。あたしでよければ今は甘えていいから……」

 俺はしばらく、先輩に体重を預けた。

 声を上げずに、俺はずっと泣いた。



 次の日に退院をして、大学は二週間ほど休む事となった。

 バイトも怪我のためしばらく休むと伝えた。頭に包帯巻いたバイトがいる本屋なんて嫌だろうし。

 しばらく自宅療養だ……気力は湧かず、部屋の中でぼうっとするだけだ。ネトゲですらやる気が起きない。

 来客も連絡もない、音のない空間で、携帯だけが震えている。

 開くといつものあいつからメールが来ている。


from
件名
しのもと がんばった わるくない


from
件名
けがだ いじょう ぶ


from
件名
げんき だして


 いくつものマキエからの励まし。

 幽霊から、と考えると奇妙だが今の俺には大きな救いだ。

 大谷さんと付き合う事になって報告したら「おめでと」と祝ってくれた。

 幽霊にも祝福する気持ちがあることにえらく感動したもんだ。

 犬の前足もやってきて頬を突ついたり肉球で頭を撫でて来る。

 こいつらなりに励ましてくれてるんだろう。

 今まで知っているのとはイメージがかけ離れている奇妙すぎる幽霊だが、それが逆に俺にとって潤いとなった。

 だが、弱かった俺をこの俺自身が許していない。

 何かしら罰を受け、少しでも償いをするべきだ。

 俺は包帯を隠す為に帽子を被り、太陽の下に出た。

 あの悪夢から、四日ぶりの太陽だ。



 縦浜の繁華街を歩き、罰とは何か……と哲学的なことを考えた。

 被害者に許される為の客観的な苦しみ、だろうか。

 よく聞くのは罰金と懲役、果ては死刑か。

 そしてその先で必要不可欠なのが被害者からの許しだ。

 それを経て罪を清算したことになる……

 この場合、俺を許してないのは大谷さんと俺自身。

 まずは俺自身からの許しを得なければならない。

 ……簡単そうで難しいな。なんだか中二病みたいだ。

 とぼとぼと歩いていると、アミューズメント系の建物で、今の自分にぴったりな文字を見つけた。

「バッティングセンター」か、なるほど。



 ネットに囲まれた屋上へたどり着き、人もまばらなバッティングセンターを見る。

 受付台らしき場所に白いジャージ姿のガラの悪い男が店主らしき人と話している。

 専用コインを買い、射速度の一番高いケージに入り、バットを手に取る。

 コインを入れて、構える。

 射出機から発せられた白い球は視界に捉えられず、俺の横を通過する。

 ……おい、速いな。

 次はタイミングをミスり、打ち損ねた。

 五球目にして、やっと当たった。腕から来る衝撃で、頭に響く。これがまた痛い。

 ……こんなんじゃ、ダメだ。

 俺はバットを捨て、手のひらを晒す。

 球が指を掠った。それだけでも悶えるほど痛い。

「ぐぅうっ!」

 次が出される。今度はキャッチした。

「うがぁあっ!」

 痺れる程の痛み……さすがにグローブ無しでは耐えられない。

 いや、大谷さんが受けた心の痛みにはまだ届いてない……

 立て続けに射出される。今度は胸にヒットした。

「っうあぁ!」

 痛い……ものすごく痛い……骨、折れちゃったかな……

 いや、大谷さんの痛みはこんなもんじゃない!

「……おい! てめぇ何してる!」

 幾度と続いた悲鳴を聞きつけたか、カウンターにいた二人がやってきて外から怒鳴り声を上げてきた。

 射出を宣言するブザーが鳴る。俺は頭を左腕でガードする。

 見事防御したところにヒットする。

 重なる痛みに転倒する。

 ケージを開いてジャージの男が俺の襟を引っ張って外へ投げ出した。随分乱暴な放り投げだ。

「おいコラ、てめえ何してやがった」

 ドスの効いた口調で詰め寄ってくる。今の俺に答えられるだけの気力はない。

「シカトこいてんじゃねぇよ! 俺らのシマでナニ勝手やってんだよ!」

 そのまま俺を勢いよく殴る。今までで一番強く頭に響いた。

「っづぅ!」

 殴られた拍子に帽子が落ちたのか、視線の先に床で平たくなっていた。

「……おめぇ、怪我してんじゃねぇか」

 彼の勢いが止まる。そして俺の腕を引き上げ、肩を貸す形で連れて行かれる。

 事務所という密室に、俺の身柄は運ばれた。

 これでいい、これが俺の罰だ。もうどうとでもなってしまえ。



 革張りのソファで横になり、俺は呆然と天井を見る。

 身体中がボールの衝撃で痛み、頭も共鳴するかのように脈打っている。

「……ほれ」

 白ジャージの男が、カップ入りのコーヒーをそばのテーブルに置く。

「す、すんません……」

 とはいえ、俺は上体を起こすこともままならず、そのままの体勢で会釈した。

「なんで死にたがるような真似したか……語る気はねえんだろうな」

 男は行儀悪く向かいのソファに腰を沈め、テーブルに足を乗せる。

「くたばるのはてめえの勝手だ。だがそれに俺らのシマを使うのはやめろ。商売がしにくくなる」

 率直で、身勝手すぎる意見はむしろ清々しかった。

 死ぬつもりは無かったが、確かに彼らの商売道具である種の傷害事件を起こしてしまった。

「少しでも俺らに迷惑をかけた詫びだ。答えろや」

 煙草に火を付けて俺の方に指す。俺はぼんやりと見つめ返した。

「自殺未遂はその頭の怪我と関係あんのか?」

 怪我……大谷さんを傷つけた連中がやった。と言えば関係はむしろ深い。

「……はい」

「何があった? ただの怪我でそこまでヤケになる奴は初めてだ」

 俺は観念して大谷さんを襲った奴らの事と彼女を救えなかった事、そして自分を戒めている事を簡単だが話した。

 ジャージ男の回答は簡単だった。

「おめえさ、底抜けのバカだろ」

 あっさり言ってくれる。俺の苦悩は他人には分からないさ。

「てめえがボコボコになってその女が許してくれるのか? そうじゃねえだろ。それで全部解決できたら世の中苦労しねえよ。俺らの商売上がったりだ」

 正論だ。俺自身が傷ついて彼女が許すはずもない。

 でも、胸の内ではここまで痛い思いをしたのだからもう恨まなくても良いじゃないか……と主張したい自分がいる。

「本当はてめえの女をレイプした野郎をぶちのめすのがスジなんじゃねえのか? で、ビビリのてめえは弱くてそれが出来ないから自分を傷つけることで自己解決してるんだよ」

 ここまで言い当てられるとさすがに何も返答ができなくなる。

 彼の言うとおり、あのDQNたちに仕返ししようという発想を持たなかった。

 それでは、根本的な部分は何も解決しない。

「……んで、そのレイプ魔の顔と名前は覚えてるのか?」

 忘れるはずがない。そして、正直思い出したくもない。

 奴が俺を殴る前に聞こえた名前……

「えっと……確か『木谷』だったと思います」

「木谷だとォ!?」

 反射するかのように、怒号が返ってくる。

 えっと……これは、知り合い、なのかな……

「一応確認すっけど、三人組だよな。腰巾着二人の」

 俺はゆっくりと頷く。

「……ヤツら、カタギに手を出しやがったのか。しかもよりによって傷害とレイプたぁ……」

 彼の中で大きな失望感があったのか、頭を押さえて俯いている。

「……すまねえな。あいつは俺らの組に入る予定でよ、巷じゃぁ調子に乗っているって聞いてたんだが、まさかここまでゲスとは思わなかった」

 懺悔するように、顔を伏せている。

「俺らはマトモじゃねぇが、社会に生きる以上ルールってもんを大切にしている。カタギに手を出さない事と、レイプをしない事だ。ヤツら、一気に二つも破りやがった……」

 彼はしばらくうな垂れ、俺の方をチラリと見る。

「なぁ、おめえ……」

「は、はいっ……」

「悔しい……よな」

 あれから大谷さんの様子は聞けてないが、精神的に大きな傷を負った事は変わらない。

 当然、許したくはない。

「……はい」

 俺は起き上がり、彼を見据えて力強く返事した。

「良い眼してんじゃねぇか……よし、決めた」

 彼は立ち上がり、俺の前にやってくる。

 さすがに威圧感がすごい……

「名前は?」

「お、俺ですか……」

「他に誰がいる」

 彼が立っていて俺が座っているなんて失礼だな。

 痛みはまだ引いてないが、堪えて立ち上がって彼と目線を合わせる。

「篠本、成久って言います」

「俺は蓮蔵組次期組長、六代目になる龍郎だ。成久、俺がおめえを鍛えてやる」

 彼は握手を求めて、俺は戸惑いながらもそれに応えた。

 な、なんかすごい事になってきたぞ……
←前章 top 次章→