医師に憧れる子供は多い。
それが自身が救われたという体験から、目標に掲げるきっかけになるという話はよく耳にする。
事実、医師は社会の中でも高い地位に属し、ただ医師と名乗るだけで崇拝する者すらいる。
少し大人になってから「高収入」という邪な理由から医師を目指す不届き者もいる。
しかし勝てば官軍、理由や経路は別としてなってしまえば「お医者様」なのだ。
重要なのはその先だ。内面がいくらドス黒くとも大勢を救う模範的な医師であれば信用は得られる。
私利私欲の為に振る舞えば、最悪お縄だ。
医師とは命を扱う仕事なのだ。それを理解せずに地位に溺れるのは愚の骨頂だ。
模範的である事が難しく、そして最も重要なのだ。
私は、それを忘れてはいない。
私は幼少の頃より同級生から迫害に近い扱いを受けていた。
簡単に言えば、イジメを受けていた。
私物を隠されるのは日常茶飯事で、グループでは外され、選ばれる事も順序は最後だった。
昔は昨今と違い、保護者が学校に乗り込む事はなかった。
そういう事も有ると親は学内の関わり放棄し、私の学童生活は実に惨めだった。
私は医師になるとその頃から決めていた。
心理的ケアで救ってくれた医師に出会えた等の美談ではない。
私を蔑ろにした同級生や教師を含めた周囲の人間たちを見下す為だ。
社会的地位を高くして、どうせそれ以下の大人になる者共を馬鹿にしてやるのだ。
それが医師になるきっかけだった。
医師になる道を調べ、それに向かって徹底的に向かい合った。
学力テストでは常にトップを保ち、馬鹿にされる事はなくなった。扱いはさほど変わらなかったが。
しかし、教師は私が首席であることを嫌ったのを覚えている。
風俗嬢の母子家庭だったのだ。
母は私の指針を最初は信じていなかったが、学力的に優位になると背中を押してくれるようになった。
高校は仕送りによる一人暮らしが許された。
その頃には母は風俗業を引退し、水商売で働くようになった。
高校生活は勉強一筋だった。
教育熱心な親ではなかったが、自身の贅沢を優先させず、息子の勉学に集中させてくれたことは感謝したい。
しかしやはり、高校での扱いも以前とは変わらなかった。
同じ学校に進学した同級生が私の素性を明かしたのだ。
この行動がいくら勉強しても私の成績に追いつけない事から来る嫉妬が起こしたものであることは間違いない。
高校側は私の扱いに悩んだが、結局のところ私の出生については不問となった。
学力的に優れる人間は学校側からしても無下には出来なかった。
私が最難関の大学に進学する可能があれば良い宣伝になるからだ。
初めて、実力で地位を獲得した瞬間だった。
周囲からは呪われることになったが、そこは進学校。
表面では大人の対応をし、水面下で悪質な妨害が成されていた。
私はそれを受けつつ、流していた。
受けた報いは未来で果たす。それを糧にした。
そんな私にも青春が無いわけではなかった。
気になる女子はいた。
村瀬ゆかり、人当たりの良い人気者で、私が他人として初めて存在を気に留めた女だ。
しかし接近を挑む前から既に諦めていた。
典型的な勉学男に年相応の魅力があったであろうか。
ユーモアがあったわけでもなく、ましてや後ろ暗い噂まである。
そんな男が人望の厚い女子に恋とは笑い話だ。
しかし悪戯というものは思いがけない時にやってくるものだ。
「ねぇねぇ、優等生さん……」
図書室で勉強をしているときに彼女から声をかけられたのだ。
「……なにか?」
私はポーカーフェースを装いながらも、緊張で激しく汗をかいたのを忘れてない。
「いつも頑張ってるね。何をそんなに必死になってるのか気になってさ」
「……僕は目指すべき道が決まっている。その為には今やっている以上の勉強が必要なんだ」
当時の回答は、同級生にとっては眩しいものだったのだろうか。彼女は拍手して感心していた。
「すごいすっごーい! さすが優等生は違うなぁ。もう既に将来を決めて一直線なんだ!」
友人がいなかったせいか「普通」を知らなかった。
だからこそ、皆いつ努力をするのか気にはなっていた。
「ねぇねぇ、聞いていい? 将来何になるの?」
その時、母以外で初めて未来を口にした。
「い、医者になるって……もう決めてる。それ以外考えてない」
「お医者様!」
彼女の目の輝きが強まった。やはり医者という肩書きは最強だと再確認した。
「ねぇねぇ、そのお医者様にお願いなんだけどぉ……」
「え? あぁ……な、なに?」
女子に免疫が無いのは自覚していたが、少し可愛らしく首を傾げられるだけで魅了されてしまった。
「勉強、教えてよ。教える事も勉強の一つってことで……」
後ろ暗い私に近づいた理由が、わかった。
それから私は自分の勉強もしつつ、彼女に解らない部分を解説して勉学の手伝いをした。
二人の勉強は、私が教え下手なこともあり、最初は難航したものの彼女の成績は見違える程向上した。
私もまた、他人に教える事で意思疎通の難しさを知り、考え方に柔軟性を持ち合わせるようになった。
雰囲気が良くなりつつある中、芽生える想いも大きくなっていったが、それもまた医師の地位を手に入れてからモノにしようと誓った。
今はまだ早過ぎる、足を引っ張る事態を引き起こすことになれば後悔する。
……結果、後悔することになった。
卒業を前にして村瀬ゆかりの妊娠が発覚したのだ。
相手は当時交際を噂されていた男で、たしかサッカー部の部長だった事は覚えている。
そして彼女は進学を諦めて結婚することとなった。私と共にした勉学は全て無駄となった。
確かなのは……私の中で大きな挫折感が生まれたことだ。
取り返しのつかない事態は、私の心に闇のタールを上塗りした。
恋愛の挫折を味わってから、交友関係は一切持たずにただただ勉学に務めた。
そして躓くことなく医師への道を獲得した。
職の頂点に立ち、私は世間の全てを見下す権利を手に入れた。
あとはそこで地位を手に入れるだけだ。医師界の上下関係は厳しいのだ。
最難関大学の医学部を出たという事で、最初からそれなりの地位が用意されていたが。
内に秘めるどす黒い感情を押し殺し、私は模範を守った。
欠員が出れば自ら赴き、患者へは医師として逸脱する事なく治療に当たった。
故に人望は定かではないが、各々から信頼されるようになった。
無愛想を貫き、同僚との付き合いも最小限だったが、院内の地位は実績と共に向上し、将来は院長になるのではないかと噂が持ち上がった。
病院では常に模範を守り通したが、私の内なる闇を外に滲ませるようになったのは四つの事件から起因する。
一つ目、村瀬ゆかりと再会した。
きっかけは彼女の夫が重大な事故に巻き込まれ、大怪我で病院に運ばれたのだ。
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外観だけで他の医師が匙を投げたくなる程で、看護師に至っては悪心でトイレに駆け込む程だった。
まだ小さい娘を引き連れて、別の意味合いで涙の再会だった。
「本当に、お医者様になったんだ……お願い、彼を助けて……」
嗚咽を混じらせて訴える、それが私にとっては非常に胸が苦しかった。
初恋の相手に、別の男を助けてと頼まれる辛さは耐えられないものだ。
ICUに運ばれた急患を囲む医師はただ騒いでいるだけだ。
誰が治療に当たるのか揉めている。
私は集団の輪に割り込んだ。
「どけ、私が執刀する……」
結果、彼の命は助かった。ただ欠損を含む重度な障害が残る事となった。
車椅子の生活は免れないだろう。私がそういう風に仕向けたのだ。
欠損は出てしまうにせよ、最終的には杖無しでも歩ける程に回復させる自信はあった。
これは私から初恋の相手を奪った罰であり、また夫を私に選ばなかった彼女への罰でもあった。
その事実を知らない彼女は泣いて喜んだ。
他の医師達も私を賞賛した。
無理もない、即死でもおかしくない程の怪我だったのだ。
これをきっかけにかつての同級生も私を頼りに泣きついてきた。中には私を迫害した生徒や教師もいた。
……世間への復讐が始まった。笑いが止まらなかった。
二つ目、十一年前になる。病院内で大きな騒ぎが起きた。
数人の患者が大暴れして機器や内装を破壊し回っていると、耳に入った。
好奇心に駆られ、騒ぎの中心に向かった。
悲鳴の集中する現場の一つに到着すると、目を疑う光景があった。
逃げ出したであろう患者はそこにいた。誰が見ても一目でわかる。
肌は浅黒い緑がかかり、髪の毛は殆どが抜け落ち、そして眼が異常なまでに赤い。
全てに恐怖の記号が刷り込まれているかのように、一目見た時には足が竦んでいた。
患者……というよりバケモノだ。
何が起きているのかさっぱりわからなかった。
バケモノに掴みかかられ、そのまま遠くへ投げ飛ばされる。
未だに思考が追いつかなかった。
そして混乱はさらに覆い被さる。
院内が突然の爆風に包まれたのだ。
それが小太原総合病院の爆発事故である。
気がつくと壁が崩れ、瓦礫の山を作っていた。
上手い具合に瓦礫が折り重なり、私は九死に一生を得た。
それと同時に、人生における絶望も得た。
左手関節から先が瓦礫で潰されていた。
これはもうどうしようも無い……医師だからこそ咄嗟に判断できた。
「う、うあぁああああ!」
痛みではない、絶望で叫びが上がった。
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