三十三、託された想い

【○】
 江城達が避難した。

これからの戦いで二人の存在は邪魔でしかならない。

 江城は不満があるだろうが、俺にだってマキエを救うことができる。

 マキエが江城ではなく、俺に取り憑いた理由が、恐らくそれだったんだ。

 夢の中では常に散々だったが、あれは今の為の予行演習だ。今この瞬間こそが、本番なのだ。
【■■】
 彼についての情報が少なすぎる。

 彼は何者で、私をどこまで知っているのか。

 戦士の眼を持つ、だけでは明らかに不利だ。

 あのマントの中がどうなっているのか、武器は手に持つナイフだけなのか、先ほど投げたハンマーのようにまだ隠し持っているのか。

 私とて武器は持っている。それが知られていなければ、まだ焦る必要はない。

 あとは左手の怪我。恐らく動かすことはできない上に刺激を加えれば激痛が走るはずだ。

 私が優位である事実は、まだ揺らいでない。
【○】
 左手が義手になってて、人差し指がメスで中指がスタンガンだったな。

 ポケットの中は牽制用に催涙スプレーと、切り札に硫酸を隠しているはずだ。

 眠るたびに夢で見た光景が今現実となって立ちはだかる。

 ナイフを構え、男に迫る。

 相手がポケットに手を突っ込むのを見逃さない。

 硫酸にしろスプレーにしろ、取るべき行動は変わらない。

 ポンチョを翻し、防御姿勢を取った。

 どうやら引っ掛けてきたのはスプレーの方だったらしい。

 元々雨具であるポンチョに染み込む事はなく、液体を振り払う。

 勢いを殺さずにそのまま男の顔に拳を叩き込んだ。
【■■】
 大誤算だ……牽制に催涙スプレーを吹っかけようとしたが、まさか防がれるとは。

 衣類に染みこめばまだ表皮に付着してダメージが行くだろうが、敵が着ているのは布のマントではなく雨具……スプレーの液体を通すわけがない。

 それより咄嗟だとしても対応が正確すぎる。

 雨具を着てきたのもスプレーに備えてか。

 いや、考えすぎだ。それより今は迫り来る敵を討たねば!

 ナイフを突き落としてくる。狙いは私の首だ。

 避けるに難くない攻撃だったが軌道を見れば本気で殺しにかかっているとわかる。

 やはり戦士の眼も元は殺人鬼の眼か。確かに戦場という場において命の奪い合いは不思議なことではない。

 ……なるほど、狂者が戦士を恐れる理由がわかった。

 戦いの場が、根本的に違っていたのだ。

 狂者は平和な街並みで命を奪い、戦士は戦場で命を奪う。

 戦いにおける覚悟の違いなのだ……

 だが私とて彼と対峙した瞬間から覚悟はできている。

 戦士と戦って無事で済むとは微塵にも思っていない。

 体勢を立て直し、左手で反撃を試みる。

 敵はそれを左手で受け止め、ナイフを私の左手首に走らせる。

「義手だろ? 手の内を晒しなよ」

 義手であることを隠すシリコン樹脂に穴が空く。

 この男……どこまで!

 一度下がり、手首のスイッチを押す。指先サイズのメスとスタンガンが露出する。

 この凶器を前にしても平然と構えている。

 私はメスを敵に向け、肉迫する。

 敵はナイフで対処するが、そこに隙が出来る。

 ナイフとは反対……怪我のある左側だ。

 幸いにも私の右手はガラ空きだ。殴れば肩や腕でガードをかけるしかない。

 左の上腕二頭筋を狙う形で、拳を叩き込む。

「ぐぅっ!」

 片腕とは……やはり不利なものだな。

 戦士を討つ活路が見えた。
【○】
 夢の中だったとは言え、毎回敗北を喫すると妙な汗が出る。

 越えられない高い壁が勝手に連想される。

 しかし最初は優位に立てた。夢の予行演習が多かったせいか、相手の動きは読めるし癖も熟知してしまった。

 片手というハンデを背負っていても、互角に渡り合っている。

 やはり時間が経てばそれなりの隙を許してしまうのは致し方ない。

 左半身ばかりが攻められ、痛みが蓄積して弱点化していく。

 まだ硫酸はポケットから出てはいない。

「うぉおっ!」

 男が剥き出しのメスを向けて飛びかかってくる。

 刃は小さくても、切れ味は俺のナイフとさほど変わらない。

 スタンガンも同じ部位から伸びてくるから左手は一番注意しなければならない。

「くっ!」

 右手で握るナイフで受け止める。一つでもミスすれば命取りだ。

「やるな……さすがは戦士の眼の持ち主というところか。ここまで渡り合ったのは君が初めてだ」

「そら、どう……もっ!」

 右腕だけの力で押し、滑らせて左人差し指を切り落とす。

「なにっ!」

 少し距離を取らないと……体力が消耗している。

「シェリー、行け!」

 レトリバーの足が勢いを乗せて男に飛びかかる。

 うまいこと転倒させて、なんとか離すことができた。

「……君は不思議だ。さっきから犬の足が出てきているがアレは何なんだ? なぜそんなことができる?」

「犬の幽霊さ、どうやら俺のことを気に入ったらしく、言うことを聞いてくれるんだ」

 男が起き上がってくる。これは大チャンスだ。

「こんな風に……なっ!」

 奴に肉薄し、犬達に命令をかける。

「連続パンチだ、やれ!」

 幽体である犬の前足が連続して男を殴る。その連撃は数十回に及び、最後は六本同時の強力な犬キックだ。

 立ち上がったばかりの男は再び地に膝を着いた。硫酸を警戒し、俺はあえて後ずさりをする。

「クク、ククク……見た目は強烈だが威力が足りんぞ。犬の足ではせいぜいそんなものか?」

 ……やっぱダメかぁ。必殺技になると期待したけど、甘かったか。

 呆然としている暇はなかった。素早い動きで男の蹴りが俺の右手を通過し、ナイフを払われる。

「しまっ!」

 咄嗟にさらに下がり、相手の左手に注意し、左腕のベルトから金属ボールペンを取り、追撃を弾く。

「次から次へと面白いな。君はどれだけの武器を隠しているのだ?」

「さてね、俺も把握してねぇな」

 金属ボールペンは威力としては申し分ない。しかしこの男相手には相性が良くない。

 中指のスタンガンはボールペンに当てられても十分に届く。

「ボールペンとは、ヤキが回ったか?」

「残念、俺の……切り札だよ!」

 重さが無い分ナイフの時と打って変わり、速く滑らかな軌道で相手の身体に突き立てる。

 腕、腹、後ろ太腿の流れで掻き、通過する。

 やはりペン先の突起はスーツ越しでも鋭く響くようだ。

「うっぐ……ならば……私も切り札を見せよう」

 ヤバイ、来る!

 振り向き様に液体が飛んでくるのが見える。咄嗟にポンチョを脱いで液体を巻き込み振り捨てた。

 さらに距離を空けた。離れた所でポンチョが煙を立てて溶けていく。

 くそぉ……アレ、三万円だぞ!

「な、に……」

「硫酸がくる事まで想定内だ。何度も喰らってりゃ読める!」

 危なかった……反応がもう少し遅れてたら確実に喰らってた。

 あとは左手に気をつけて勝負に持ち込む!

 ボールペンの方がやはりいい動きが取れそうだ。

 この勢いに乗っ……また、ポケットに手を……?

 まさか……ヤバイ、今度は避けられない!
【■■】
 戦士との戦いは想定を超える事態ばかりだ。

 だが私とて後れは取らない。

 切り札が一つとでも? そんなルールなど存在しない。

 硫酸はもう一つ隠し持っている。

 外した時を想定してだ。

 まさか硫酸の事まで知っているとは意外だったが、この突進の軌道を変えるのは難しいだろう。

 油断しているところにぶっ掛けてやる……そうすれば敵は熱と激痛でのたうち回る。そこで止めを刺す。

 ポケットから対腐食仕様のカプセルを取り出す。

 蓋を開け、敵の顔に降り掛かるように放つ。

 戦士は体勢を低くし、回避を試み……いや、あろう事か包帯巻きの左手で硫酸を掬った!

 左手の包帯は硫酸で濡れ、それは私の顔面を押し潰す。

「っぎゃああ……あああぁっ、ああああ!」

 言葉にできないほどの激痛が顔面全体を覆う。

 右の瞼にも侵入したのか、眼球にも激痛が走る。

 硫酸が敵の左手と私の顔を焼き、その音が響く。

 激痛の中、左中指のスタンガンの出力設定を上げる。

 これを喰らわせれば数時間は動けない。

 押さえ込まれた状態で中指を敵の腹部に当て、発動する。

 爆発音が一瞬にして響く。敵の動きが止まった。

「この……離れろォ!」

 右足で強く蹴り上げる。敵は受け身を取らずにそのまま後ろへ倒れる。

 くそ……まさかこの私が硫酸を浴びる事になるとは……

 このまま終わらせない。今この瞬間こそ息の根を止めるチャンスだ。

 メスは切られ、スタンガンは今の発動で壊れたようだ。

 ……おぉ、あそこに敵のナイフがある。アレで止めを刺してやろう。

 片目しか開かない故に遠近感を掴みにくかったがどうにかナイフを手にする。

 これを奴の心臓に突き刺させば戦士との戦いに勝利する。

 さらばだ……これで私は戦士を恐れる必要はない。

 ナイフを構えて近づく……と、突然敵が起き上がった。

 不思議なことに起き上がるモーションをせずに、何かに引き上げられるような動きだ。

 右手にはヒビの入った水晶玉……

「これで……終わりだぁっ!」

 水晶玉は私の顔面に当たった瞬間、砕けた……ようだ。
【○】
 ……死ぬかと思った!

 蹴り上げられた瞬間に、俺に何が起きたのか理解した。

 俺はスタンガンを回避した。いや、厳密には携帯が身代わりになった。

 ご都合主義っぽい展開に聞こえるが理屈はある。

 幽霊が味方してくれた。霊的な物理移動現象、いわばポルターガイストの一種だ。

 マキエの手によるものかは不明だが、スタンガンの攻撃を回避できたのは間違いない。

 あの男は俺が喰らったと判断して止めを刺しにくるだろう。

 それが最後の隙。そこを狙って一気に決める。

 武器は、ダメだ。ベルトに差したものは取る動作でバレる。

 ……幽霊ホイホイ! あれは腰ベルト右側の布袋にあったはず……って無いし!

 視線を右下に向けると転がっていた。しかも倒れた衝撃でヒビが入ってしまっている。

 手を伸ばそうにも届きそうもない……あれだけでも取れれば……

 そう思っていたらホイホイが自分から転がってきた。

 まさか……幽霊か。

 俺は身動き一つせずにホイホイを掴むことができた。後は奇襲をかけるだけだ。

 ホイホイを握り、念じる。

 みんな、力を貸してくれ。後はコレで殴れば奴を倒せるんだ。

 一瞬でも素早く起きたい。頼む!

 小さな手が俺の服を掴む。背中からは俺を押し上げる力を感じる。

 勢いを乗せて空中浮遊の要領で起き上がる。

 驚く男の顔が焼け爛れていた。

 左目を除いて、全体が赤く染まった痛々しくも醜い顔面。

 俺は容赦なくホイホイを振り下ろす。

「これで……終わりだぁっ!」

 ホイホイは崩れ、勢いをそのままに地面に叩きつける。

 大きなガラスの割れた音が響くと同時に地面におびただしいほどの白い手が床から生えてきた。

 ホイホイに封じ込められた幽霊達が一気に開放されたのだ。

 そしてその騒ぎに乗じてこの廃病院の幽霊達も活発化したようだ。

 手は幽霊の海へ引き込もうと俺のズボンを引っ張る。

 沼に足を突っ込んだような感覚で、どうにか前に進めるくらいの力だ。

 引き込まれたら終わりだ。どうなるかわかったものではない。

「うわぁっ、な、なんだ! や、やめろぉー!」

 男が幽霊達から一斉に引っ張られ、溺れそうになっている。

 抵抗しようともがいているが、どうやら無数の力には勝てないようだ。

 ヤバイ、段々引く力が強くなってきている。

 どこか安全地帯を……あっ、あの台には幽霊の手が届かないみたいだ。

 引っ張られつつ、蹴り払い前へ進む。

 あともう少しというところで突然力が増した。

「くそっ! あともう少しなのに!」

 手が……届かない!

 膝を付き、シャツも引っ張られる。引き摺り込まれるまで、もう時間の問題だ。

 力が尽きかけ、抵抗に苦しくなって諦めかけたその時、俺のシャツを引っ張る力を感じた。

 見上げると、俺を引き上げようとする手の影が何本か見える。

 そして、三つの犬の口。


「お前たち……」

 きっとあの男に命を奪われた人々だ。

 俺を助けようとしてくれる。

 床の霊も負けじと寄ってくる。

 まるで俺を賭けた綱引き状態だ。

 引き上げる霊も増えていく。

 犬の口も、もう一つ増えた。

 あれは……トイプードル?

 そうか、ホイホイの中に居たのか……

 数々の助けがあって、俺は台の上に避難することができた。

 スイッチが尻に当たってちょっと邪魔だったが、文句は言ってられない。

「うわ……うわぁーー!」

 狂者の眼を持った連続殺人犯は抵抗の末、幽霊の海に沈んだ。

 一体どうなってしまうのか……想像するのも恐ろしいが、ともかくこれで仇討ちは完遂された。

 とりあえず……幽霊が収まるまでじっとしているか。
【△】
 篠本の指示に従い、俺たち三人は早急に廃病院から抜け出した。

 俺を中途半端に拘束していたロープも道中で解いてもらった。

 今は無事に外へ抜け出し、篠本の帰りを待っている。

「江城、大丈夫か?」

「あぁ、今はもう落ち着いている」

 定本の救出はできたし、あとは奴にさえ勝ってくれれば、俺には充分だ。

 実は、俺にもあのクソ野郎に勝てる自信はなかった。

 言い知れない恐ろしさを感じ取ったというのもある。

 何より、俺自身が奴と同類になる事を拒んだ。

 一瞬なりかけたが定本や佐々木さんの言葉で鬼神になりきることはできなかったろう。

 怪我があっても篠本の方がよほど希望を感じた……だから託した。

 頼む、篠本……牧江の魂を救ってくれ……

「江城君、何か変じゃない?」

 定本が廃病院を指す。うめき声が微かだが聞こえてくる。

 そして、おぞましいオーラを感じた。

 ものすごく……ヤバイ。幽霊が暴走しているような……

 とにかく建物の中にいる事自体が危険だと、本能が訴える。

「篠本……」

 あの中で篠本が戦っている。

 無事に出てきてくれればいいが……

「江城君、怖い……」

 定本が震えながら俺に頭を預けてくる。俺はその恐怖から守るように優しく抱きしめる。

 声は十分ほど続き、それから徐々に小さくなっていく。

「声が、止んだ……」

 佐々木さんの言うとおり声が聞こえなくなった。

 ヤバイオーラも消えて、来たときと同じ普通の廃病院に戻った。

「江城、篠本を探しに行くべきでないか……?」

「いや、今はまだ早い。あと十分くらいしたら行こう」

 まだ霊の影響が出ていると思って良い。

 それに……篠本は勝利して自分の足で帰ってくる。俺はそれを信じている。

 牧江が篠本に託したように、俺はその篠本を信じる。

「あ、あれ、もしかして……」

 背病院の入り口から人影が見えた。

 それは、一人の男を担いで出てきた。

「篠本!」

 篠本の足取りは危うかった。今にも倒れそうなほどふらついている。

 俺たちの姿を確認したのか、表情に安心感が宿った。

 担いだ男をドサリと放り落とす。

 顔は真っ赤に焼けただれているが、格好からして牧江の命を奪ったあの男に間違いない。

「あぁ……やったよ。これで、マキエを助けられるかな……」

 そう言い残し、篠本は膝をついて倒れた。

「おい……篠本? 篠本ぉー!」

 揺さぶっても意識は戻りそうもなかった。

「やめろやめろいやだいやだいたいいたいたすけてたすけてこわいこわい……」

 奴は俺に詰め寄った時の威勢が消え去り、怯えるようにブツブツと呟いている。

 この精神状態ではもうなにも出来ないだろうな。哀れだな。

 これで……これで牧江の魂が救われる……やっと、事件が終わったんだ。

 俺は懐中時計を強く握りしめる。

 牧江……終わったよ。

 やっと、終わったんだ……

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