三十四、色鉛筆の世界

【○】
 目が覚めて、大きく伸びをする。

 カーテンが風で舞い、爽やかな空気が俺の身体を撫でる。

 木製のベッドから立ち上がり、階段を下りて居間へ足を運ぶ。

 白いワンピース女の子がテーブルに朝食を並べている。

「あ、しのもと、おはよう!」

「おぅ、おはよう……マキエ」

 元気と無邪気を掛け合わせた笑顔が今日も眩しい。

「座って座って! もう少ししたらパンが焼けるから!」

「うん、ありがとう」

「あ、今日はコーヒーにする? 紅茶にする?」

「あぁーそうだね。コーヒー、お願いしようかな」

 変わらない日常……窓、風、庭、花……全てが色鉛筆で描いたような優しい景色。

「ハイ、どうぞ!」

 焼けたパンをかじる。芳醇な香りが穏やかな気持ちを優しく包む。

「ねぇ、しのもと。今日どこ行く?」

「そうだな。マキエの好きなところでいいよ」

 んーとね、と唇に指を当てて考え込んでいる。そんな仕草を見ているだけでも優しい気持ちになる。

「じゃぁ、湖行きたい!」

 いいよ、君の好きなところ、たくさん行こう。

 三日目の朝は、湖へお散歩だ。



 木造の小屋を出る。景色は変わらず色鉛筆で描かれたように見える。

 四匹の犬と一緒に何もない、緑だけの道を歩く。

 喧噪も汚れた空気もない、美しい緑の世界。

 湖も、そんな美しさに溢れた景色の一つだ。

 何をするわけでもない、ただ二人で寝転がっている。

 犬たちは勝手にはしゃぎ、楽しそうに遊んでいる。

 風がすごく気持ちが良い……あぁ、ずっと気ままに過ごしたい。

「ねぇしのもと、人が来たよ!」

 起きあがると確かに遠くの方から背の高い男がやってきた。

 面識はない。初めて見る顔だ。

 彼は俺のそばまでやってきて握手を求めてきた。

「ありがとう」

 そう言って彼はそのまま向きを変えずに歩いて消えた。

 続いて後ろにいた女の人もそばに来て俺に握手を求めた。

 同じように感謝の言葉を後にそのまま通り過ぎていく。

 それから何組ものカップルや、女の子二人組とか、様々な人が俺と握手をしてきた。

 みんな同じように俺に感謝の言葉と一緒に握手を交わす。

「なんだか今日はすごいね。来る人みんな俺にお礼言ってるよ」

 何をしたかは覚えてない、でもきっとそれは自然の流れ……こうあるべくして成されている事なのだと、疑いを持たない。

「しのもとは、みんなを助けたの」

「俺が?」

 眩い笑顔は、世界を白い光に変えていく。

「もちろん私のことも……」

 マキエの身体が宙に浮き上がる。

 景色はいつの間にか真っ白な光で満たされていた。

「おい、どこに?」

 左手を伸ばそうとして、気づいた。

 左手が透けて、感覚も無くなってきている。

「もう、そろそろだね。しのもと、本当にありがとう。しのもとが助けてくれたおかげで、私たちみんな開放される」

 何を言ってるんだ? どこへ行くんだ? 「しのもと、さようなら。短かったけど、すごく楽しかった」

 バカ言うなよ……行かないでくれよ。

 だったら、俺も一緒に……

「ううん、しのもとは来ちゃだめ。ここから先は生きてる人は来れないの」

 生きてる……?

 じゃぁ、ここは……

「また……会えるかな」

 ……会えるさ。いつか絶対に……また会えるさ!

「しのもと、この子たちも連れてっていい?」

 犬たちか? あぁ……いいよ。

 ゴン助、シェリー、ドリル号と……あとまだ名前付けてないトイプードル。

 お前たち、マキエの事、しっかりと頼むぞ。

 よしよし、いい子だ。お前たちとも、楽しかったぞ。また来いよ。

 マキエたちと距離が開いていく。

 後ろを振り返ればドアが迫ってきている。

「しのもと! さよなら!」

 さよなら……じゃねぇよ!

 またな! だろ!

 マキエが見えなくなって、ドアの外側にいつの間にか立っていて……閉じた瞬間、辺りは暗くなった。





「ん……んうぅー……」

 無機質な天井が目に映る。

 身体を起そうとして、関節が痛む。

「いつつ……」

 病室、か。今までのは夢だったのか。

 辺りを見回しても、誰もいない。お決まりのパターンでは看病してくれる人がいるんだけどなぁ……

 なんて考えながら時計を見る。

 二時を指している。そしてカーテンの外は……暗い。

 この時間じゃむしろいる方が珍しいか。

 頭を掻こうと左手を挙げたとき、感覚が無い事に気づいた。

 腕までは自由に動く。手先が全く存在を感じない。

 包帯で巻かれた左手。それを見た瞬間、心臓が強く収縮した。

 包帯越しに触れてみる。前は微かに感覚があったが、今度は完全に、石みたいに何も感じない。

 あの男を倒す為に、この手を犠牲にして硫酸を受けた。

 そしてその結果がこの包帯の中にある。

 恐る恐る包帯を外していく。めくる度に鼓動が強くなる。

 全てを取り外したとき、俺の動悸と震えは最高潮にまで達した。

 皮膚を失った掌が赤く染まり、細かいシワはおろか、関節の境目までも消えてしまっている。

 まるで蝋人形のようなおぞましさがあり、かつて刺し傷だったところを中心に小さなトンネルができている。

 これが……俺の手……

 涙と吐き気が同時にやってきた。

 慌ててトイレを探して、どうにか便器のところまで持ちこたえる。

 何も食べてないから、吐いても何も出てこない。

 それでも荒い息は続き、何度も何度も吐き気がやってくる。

 しばらくぐったりと伏せ、ゆっくりと息を整える。

 五分ほどでようやく落ち着き……自分のいた病室へ戻る。

 とりあえず包帯を乱暴に巻く。巻き方はわからないが、とりあえず隠れればそれでいい。

 そうだ、マキエは……マキエはどうなったんだ?

 備え付けのテーブルに小箱があるのが見えた。

 慌てて被った蓋を引き開ける。

 中には壊れた携帯電話……俺をスタンガンから守る為に身代わりになった。

 爆発があったのか、ボディは割れて回路が焼けて黒ずんでいる。

『しのもと! さよなら!』

 マキエの声が頭に響く。マキエが言っていたのは、こういう事だったのか……?

 もう、マキエからのメールは、来ないのか……

 そうだ、犬たちは……あいつらは?

「ゴン助、シェリー、ドリル号……」

 呼べばすぐに出てきた犬の足も、俺の声を無視するかのように反応がない。

 何度呼びかけても、出てくる気配はない。

『しのもと、この子たちも連れてっていい?』

 マキエ、本当に連れていっちまったのか……?

 今まで日常だった幽霊の存在が突然消えた。

 それを自覚した途端、俺の目から再び涙が溢れてきた。

 先ほどの恐怖に満ちた涙とは別の、寂寥感から来る涙。

 そうか……もうあいつらもいないのか。

 マキエを失い、犬たちもどこかへ行ってしまった。

 左手は動かなくなった。きっともう一生このままだろう。

 ゲームはできない、障害者だから就職も難しい……大学での勉強も今後は役に立つのかも不明だ。

 そして何より、この手は人を愛せても……愛されることは、ない。

 この手がある限り……俺は一生独身なんだろうな。元々モテなかったけど未来に希望は持ちたかった。

 でもその夢ももう終わりだ。

 あらゆる面での絶望が次々とのしかかり、ついに俺の感情が破裂した。

「く……くぅ〜……ううううう……」

 嗚咽を上げて泣きまくる。誰に受け止めて貰うわけでもなく、ただひたすら泣く。

 俺は……マキエを救ったことで何を得た?

 何も手に入れてなんかいない。

 未来を、失ったんだ……
【■■】
 ここはどこだ……あぁ、病院か。

 しかも警察病院、だろうな。

 状況を考えればむしろその方が自然だ。

「……目が覚めたかね」

 この私をずっと見張っていたのだろうか、刑事と思しき男が私に声をかけてきた。

「お前が誘拐殺人事件の真犯人か。醜く焼けただれて、いい様だ」

 私の顔は包帯で巻かれていて表情を読み取ることは難しいだろう。

 表情筋をやられたようだ。包帯が取れたとしても何も動かせないだろうな。

「さて、事情聴取を始めよう。まず、小太原の廃病院で凶行に及んだ、と通報があったが、それは事実か?」

 ふん、何一つ答える義務もないし、つもりもない。

 話してやるものか、延々と白を切り続けてやる。
■】
「……その通りだ」

 警察官は予想外の返答に戸惑っているようだ。

「あの病院が国家機密に関わる実験を行っていた事実は知っていた。だからその汚点から目を逸らすであろうことを期待し、あの場所を実験の場に選んだ」
■□
 な、何を言っている!

 やめろ、私は教えるつもりは微塵もない!

「実験、だと?」

 実験……「闇への階段」の計画だ。こればかりは死守せねば!
【□■】
 実に不思議だ……体験したことないのに「よく覚えている」。

 何の意図で、どういう理由で、どのような方法で事を成したのかわかる。

「ある組織から依頼が来た……究極兵士を作る為に協力して欲しい、と」

 警官は資料を取り出し、私に見せつけてくる。

「この資料かな?」

「間違いない、それだ」
■□
 やめろ、なぜ私は素直に答えているのだ……絶対漏らしてはならない秘密だ。

 今という状況でそれを全て晒すのは非常に危険だ。

 口を閉じろ……もう喋るな!

「お前は医者、だったな。しかも評判はかなり良好な、むしろ鑑ともいうべき医者だった。そんな医者が人を誘拐するとは思えないし、時間も無かったはずだ。どうやった?」
【□■】
 記憶の中から単語を呼び起こす。

「『楽屋』という誘拐専門のグループをあの組織から紹介して貰った。おかげで誘拐するにしてもアリバイは保てるので非常に助かった」

『私』はよく利用していたようだ。なるほど、これで佐恵を誘拐したのか。

「何度も口にしている『組織』とは一体何かね?」

 これの記憶もすぐに引っ張り出すことができた。あともう少しで仲間入りする所だったのか。

「『闇への階段』というテロ集団、だ。壮大な計画があるというのと、闇は墜ちるものではなく昇華するものだと信じている。それ以外は私も不明だが、大いに助けて貰った。恩の強い相手だ」
■□
 その恩ある組織のことを刑事にベラベラ喋るなど……言語道断だ!

 もう、喋るな……なぜ私は相手の質問に答えている?

 語れば語るほど不利になると言うのに……どんな意図で正直を通している?

「随分素直に吐くじゃないか。正直拍子抜けだが……とりあえず今回はここまでにしておこうか」

 くそっ……ここまで話してしまっては組織への仲間入りは絶望的だ。

 いや、むしろ私を消しに来る危険すらある。
【□■】
 去ろうと背を向ける警官。まだ伝えなければならない事は多い。

「もう帰るのか、聞き足りないんじゃないのか?」

 ドアの前に立ち止まり、唸る警官。

「死体の処理、凶行に至った経緯、まだまだあるだろう?」

 一呼吸して踵を返す警官。

「そうだ、私と同時に病院入りした男がいるだろう。私をこのような顔にしたのは彼だが、起訴はしないでおこう」
■□
 やめろ! 奴は、奴だけは何としてでも陥れなければならん!

 許すものか……私の全てを壊したあの男を、許してたまるものか!

 全財力を注いででも追い込んでやると決めたのだ!
【□■】
「彼の行動に悪意は無いし、私からすれば罪も無い。なるべくして成ったことだ。私は彼を、許そうと思う」

 警官は渋い表情で唸っている。

 凶悪事件の犯人が放つ言葉としては、聖人じみている。信用ならないかもな。

「そんなことを言っても、お前の罪は軽くならんぞ」

「構わない。私はそんなことを望んではいない」

 佐恵、絶対に「私」を許さない。全てを自ら暴いて、必ず最悪の結末を迎えてやる。

 あと、優悟……成長したな。父としてお前を誇りに思う。
■□
 やめろ……なぜ私の希望から外れていく……

 なぜわざわざ不利な方へ進んでいく!

 もう……終わりだ……

 身体が私の命令を受けず、勝手に次々と自白をしている。

 いっその事このまま消された方がマシだ。

 さらばだ……クソッタレな世界よ。

 貴様は、私に相応しくなかったのだ……


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